‘☆日記’ カテゴリーのアーカイブ

福岡広州女性交流の再開

2010年10月7日 木曜日

  女性交流というと私は決まって東方紅幼稚園を思い出します。1984年に初めて福岡市の女性の団が広州を訪問した時、その幼稚園を視察しました。可愛い子供たちの歓迎を受けて園内を視察していた私は、同行の王漢之さんから「来年は貴女の子供さんたちをここにお願いする予定だから、よく見ておいてね」と言われたのです。そこは月曜日から土曜日まで子供たちが集団生活をする寄宿制の幼稚園でした。「ええ?!」私はすっかりうろたえて、不安げな娘たちの姿を想像して涙をこぼしてしまいました。

 翌年は、「第2次福岡市女性の翼」を広州で出迎えました。広州白雲空港で、近づいてくる福岡の一行から漂う、何とも言えない明る温かいオーラを感じてとても嬉しかったものです。団の皆さんと一緒に娘たちのいる東方紅幼稚園を視察して、元気に歌ったり踊ったりしている2人の娘を見ていただきました。

 1986年には広州側からも女性の団が来福されるようになり、その後両市の女性の往来が何回も行われましたが、福岡側の財政事情もあって、徐々に縮小し、ついには途切れてしまいました。でも福岡の女性たちのパワーはすごいのです!行政がダメなら自分たちで、と「福岡市女性翼の会」は自力で活動を続けました。

 昨年5月に広州市婦女連合会のメンバー6人を含む広州市市民団がどんたくに参加されて、女性交流再開が提案されたとき、「翼の会」の存在がどんなに心強かったことでしょう。広州市婦女連合会は大組織ですから、「翼の会」としてはこの提案を受けて立つのに戸惑いがなかったわけではありません。でも私は、「交流は組織の大きさではなく中身よ!」と強気で説得しました。そもそも福岡市と広州市では人口も経済力もゼロ1個分違うのです。

 今回の調印式の実施に当たっては、中秋節の連休問題、ロシアビザ取得のために私が同行できそうもない問題等々色々な困難がありました。そしていよいよ出発という段階で尖閣列島の問題が、日中交流を重苦しく圧迫するようになりました。出発前日には旅行社の有高さんや糸山会長から「大丈夫?」と電話がありましたし、広州側からも「予定通り来ますか?」と念押しがありました。きっと参加者のご家族も不安だったことでしょう。でも福岡の女性たちは違うのです。「女性は平和のシンボルです。平和の力になりましょう!」と1人も欠けることなく参加して、元気に交流調印を成し遂げました。

 「問題はいつも起こる。歴史は問題解決の繰り返しです。自信をもって、漢方医のような広い視野で、ねばり強く取り組んでいかなければ」とはある中国の女性副市長の言葉です。私たちも腹を据えて、友好を守っていきましょう。             

         福岡広州ライチ倶楽部事務局長、広州市栄誉市民 千葉由紀子

女性交流の覚書に調印

2010年10月6日 水曜日

 9月22日~24日、日本では秋分・お彼岸、東アジアでは中秋節にあるこの時期に、糸山マチ子会長を団長とする「福岡市女性翼の会訪問団」16人に日本旅行の有高さん(当ライチ倶楽部理事)と私(千葉=ライチ倶楽部事務局長)が同行して広州を訪問し、広州市婦女連合会との間で、今後の交流をめざす覚書の調印式を行いました。

 広州花園酒店の一室に設けられた舞台には、花を飾った机が用意されており、相互の主たるメンバー紹介、李建蘭主席の挨拶に続いて、ビデオによる婦女連合会の紹介がありました。続いて関副会長による福岡市女性翼の会の紹介と糸山会長の挨拶があり、それから李主席と糸山会長が覚書にサインをしました。双方とも立会人4人が壇上に上がりました。それから記念品の交換と写真撮影を行って、無事に調印式は終了しました。

 昨年5月のどんたくに広州市の女性6人が参加して、女性交流の再開が提案されてから、7月にはライチ狩りに参加した翼の会のメンバーが婦女連合会を訪問して相互交流の意向を確認後、本格的な準備が始まったのです。 覚書の文案を検討し、訪問の日程を何度もやりとりして決定し、団員募集、数回の事前研修、記念品の準備と進めて、やっとこの日を迎えたのです。

 「やっとこの日を迎え」るのに二転三転、直前になって色々な問題にぶつかりました。中秋節が連休になったので日程を変えて欲しい、と広州側から連絡を受けたのは8月19日。私は一大決心して、日程変更などあり得ない事情を、婦女連の副主任に電話で直訴しました。「検討します」という回答から「23日に調印式をしましょう」という連絡を受けるまで待つこと2時間半。素早い先方の決断でしたが、それはとても長い2時間半でした。

 ほぼ同時に発生した、私のロシアビザ取得のために旅券が手元にない=広州に行けないという問題も何とかクリアでき、いよいよ出発という20日頃から尖閣列島をめぐって日中交流に暗雲が漂い始めました。とても悪い雰囲気でした。でも双方ともやる気満々。調印式はとてもいいムードのうちに実施されました。福岡の女性たちは、中国の人々を刺激しないように、準備していたお揃いのピンクとブルーのTシャツの上に上着をはおるという賢明さも発揮しました。宴席で合唱できればと準備していた歌集のうち「“桜”はこの時期だから微妙…」と広州側から避けられましたが、結局おしゃべりと乾杯に終始して昼食会は終了しました。

 日本語を少し学んだことがある李建蘭主席は「“桜”の歌は知っていますよ。」と小声で口ずさんでいらっしゃいました。まだ日本へ行ったことがないという李主席。「来年は是非福岡でお会いしましょう!」糸山会長は福岡での再会を期待して、堅い握手を交わしました。

   

 

日高さんの講演を聞いて思うこと

2010年10月5日 火曜日

「国際交流」というと、異なる国の人たちが向かい合ってお互いを理解し合う活動。「国際協力」というと発展途上国に行って技術指導など援助を行う活動…。今まで、なんとなくそんな風に自分でカテゴリー分けしていました。日高さんの話を聞いて、とても新鮮だったのは、彼らがやっていることは、そのどちらでもないと感じたからです。

 中国でのハンセン病問題は、聞く限りにおいて、日本で起こった問題と酷似しています。治療が難しかった頃、隔離され、忘れ去られたハンセン病患者。中国でも、病気の治療法が確立された後も差別や貧困と闘いながら暮らしている元ハンセン病患者の村があります。日高さんは、NPO法人を立ち上げ、そんな村々を尋ね、短期滞在し援助活動をしながら村民と一緒に生活するという活動を行っています。今では、日本の学生団体を巻き込み、中国の学生を巻き込み、大きな活動へと進化しつつあるそうです。

 講演の冒頭、日高さんはこうした活動を行っているきっかけを語ってくれました。日高さんが最初に中国に来た時、二人の中国人女性から声をかけられたそうです。二人は、田舎から都会に出稼ぎに来たが、頼りにしていた知人に連絡がつかず、帰るお金もなく困っていると訴えてきました。迷った末、日高さんはお金を渡してしまいました。周りの友人に話すと、それは騙されたのだ、と言われ更に悩みます。しかし、数年後、聞いていた彼女たちの田舎の連絡先に電話をしてみると、果たして彼女たちは無事に家に帰っており、その時のことを非常に感謝されたそうです。その時日高さんは、「自分が感じたことに従って行動することの正しさ」のようなものを感じたと言います。

 私が感じた新鮮さは、まさにそこにあります。日高さんのような活動は、結局、「目の前で困っている人を何とかしてあげたい」という極めてシンプルでリアルな感情を理由に繋がっています。異国の人だとか、言葉が通じないとかは関係ありません。学生なので、指導する医療技術や土木技術もありません。ただ、行って、共に暮らし、何かできることがないかを考えながら進んでいく。そこには、国際交流とか、国際協力とかの看板を掲げた派手さはありません。でも、最後にはとても素晴らしい国際交流活動、国際協力活動となっています。

 現在、グローバル化はどんどん進んでいて、国境の垣根も低くなってきています。また、ネットの発達でお互いの文化や歴史も知りたいことは簡単に調べることも可能になりました。これからは、互いを知るためだけの交流から、一緒になって何かの問題解決に取り組んでいく、そんなもう一段進んだ国際交流が増えていくのかもしれない、とそんな予感がしました。福岡と広州の間にもそんな交流が広がっていって欲しいと思います。       (by奥田)

学校法人福岡成蹊学園と広州外国語学校が姉妹校提携

2010年8月26日 木曜日

 広州外国語学校が福岡で第1回サマーセミナーを開き、その日本語学習のカリキュラム編成と実施を福岡成蹊学園が請け負ったことがご縁となり、去る8月24日、両校が姉妹校関係を結びました。協定書に調印したのは学校法人福岡成蹊学園理事長・校長の岩本 仁さんと広州外国語学校校長の寧 彬先生です。福岡成蹊学園はわがライチ倶楽部の団体会員でもあり、またひとつ広州との民間交流のパイプが繋がったことが嬉しく、心からお慶び申し上げます。
 
 広州外国語学校は広州市政府教育部に所属する市立学校で、もともと市内中心部にあったのを、広州市南沙区の広い敷地に移転・新築されました。英語教育を主とし、第二外国語にフランス語、ドイツ語、日本語など多くのコースがあるようです。今回は第1回サマースクール実施の地として、福岡を選んでくれました。保護者からは「なぜ福岡?」という意見も出たそうですが、「福岡は広州の最初の友好都市なんだから、当然ですよ」とのこと。
 
 福岡成蹊学園は姉妹校として早速、“日本語の教師を派遣して下さい”という要望を受けたそうで、広く公募したいからとライチ倶楽部にも相談がありました。日本語の先生として暫く広州で働いてみたいという方がいらっしゃっいましたら、是非ライチクラブ事務局までご連絡下さい。

広州外国語学校 第1回サマースクール開催

2010年8月26日 木曜日

   8月14~27日、広州外語学校のサマースクールが福岡で開かれました。同校の委託を受け、日本に留学した人々の組織である広東留東同学会が福岡成蹊学園と連携してアレンジしたもので、参加した中学生は14人、校長・副校長と教師2人が同行し、志賀島の勝馬にある日本旅館で合宿しながら、昼間は馬出の福岡成蹊学園で合計30コマの授業を受けました。

 学生達は英語を第一外国語、日本語を第二外国語として学ぶ人たちで、今回のサマースクールでは生け花や茶道等の日本文化にも触れました。また長崎や広島、別府への日帰りバスツァー等もあって、内容豊富な日程が組まれていました。 ただ、買い物以外に福岡という街にふれる機会がなさそうだったので、福岡広州ライチ倶楽部が主催して、楽しみながら福岡を理解してもらう “一日遊”を8月21日に実施しました。

 コースは:臨海クリーンパーク~大明火鍋城(昼食)~ロボスクウェア~VSQ~福岡市博物館~福岡市防災センター。つまりお金のかからない市営の施設で、思い切り楽しみながら学んでもらおうという魂胆でした。

  クリーンパークでは中学生から「周囲は市民の住居ですか?ゴミ焼却場の設置に反対はなかったのですか?」「ダイオキシンはどこへ行くんですか?」等々的を射た質問が出て感心させられました。リサイクルプラザでは古綿を紡いでの機織りに挑戦したり、安価に驚喜しながら縫いぐるみや帽子を買ったりしていました。

 昼食は藤崎の大明火鍋城でとりました。勝馬の日本旅館でずっと日本食を食べていた彼らにとっては久々の中華料理とあって大好評でした。白飯を追加しての健啖ぶりに、成長盛りのパワーを感じました。食事の前に校長先生から感謝のスピーチがあり、学校のデザインを硝子の固まりに彫込んだ素敵な記念品をいただきました。

  食事を急いで切り上げて、ロボスクウェアで13時から始まるロボットショーに駆けつけました。滑り込みセーフ!というタイミングでショーが始まり、一般の来場者に混じって、皆驚きのまなざしでロボット犬たちの演技を見つめていました。これは大人も楽しめます!

  VSQ(ビデオ・ステーションQ)では簡単に会社の紹介があったあと、学生達に福岡の印象を尋ねられ、一人一人英語で「日本食は綺麗だけど量が少ない」とか「広州より環境がいい」など具体的な感想を述べました。また「中国の若者に福岡を好きになってもらうには、どんな番組を作ったらいいかアドバイスを下さい」という問いかけに対して、中学生達は「アニメをたくさん使う」「有名タレントを起用する」「福岡が舞台の愛情ドラマを作る」等々、活発な提案をしていました。

  博物館では金印に最も興味を示していました。広州からも前漢時代の金印が発掘されていて比較できるからでしょうか。また遣唐船の模型や、日本で最初の自動車「アロー号」も注目を集めていました。  

消火できたかな?

圧巻は何と言っても市民防災センターでした。消火器を使っての消火体験や、地震、台風の体験、火災現場から逃げる訓練などに大喜びで参加していました。先生方も学生たちに混じって大いに楽しんで下さいました。ライチ倶楽部から随行した4人にとっても、滅多に行くことのない施設の見学は新鮮に感じられたようです。

  今日の“一日遊”を通して、彼らが忘れがたい福岡の思い出を作ったことを確信しています。そして、この思い出が小さな種となり“福岡ファン”造りの大きな木に育ってくれるよう、心から願っています。

広州大学生とバスハイク

2010年8月17日 火曜日

  7月22日から8月3日まで福岡に滞在して“会社員生活”をしている広州の10人の大学生に、企業文化や家庭生活とは別な、“もう一つの福岡”を味わってもらおうと、「アイランドシティ・志賀島バスハイク」を企画しました。
 8月1日、暑い暑い日でしたが、呼びかけに応えて参加して下さった福岡側は、福岡広州ライチ倶楽部会員・非会員合わせて24人。北京ニーハオや市役所の学習グループで中国語を勉強中の人たちや、広州生活7年、福岡に帰ってきて間もないというTさん親子も。ライチ倶楽部の事務局を担当して頂いている博多港ふ頭(株)のN課長さん達は、大きなクーラーに、前日から自宅の冷凍庫で凍らせたお茶や水をたっぷり用意して参加して下さいました。広州から来て日本語を勉強中の研修生や就学生も、久々に同郷の同世代の仲間に会って楽しそうでした。
 風邪気味で参加できなかった1人を除く9人の大学生たちが2グループに分かれて集合場所に現れ、電車に乗り遅れた後のグループの到着を15分ほど待って、さあ出発。始めにアイランドシティの国際庭園に行きました。

 アイランドシティというネーミングが人工島の “島”から来ていることは容易に想像できますが、中国語の名前をご存知でしょうか?実は“愛藍島城”と訳されていて、その発音が“アイランド”にとてもよく似ているのです。“藍”に青い海原を代表させ、“青い海を愛する街”という意味が感じられる、名訳だと思います。世界的に有名なコカコーラの名訳“可口可楽”にも匹敵するような…。因みにシティは殆どの場合“城”と訳されます。シティ=都市は中国語で“城市”といい、キャナルシティも“運河城”と訳されています。

 よけいな話はこれ位にして国際庭園ですが、2005年9月にここで緑化フェアが開催されたとき、福岡の7つの姉妹都市にお願いして、それぞれの特色を備えた庭園を造ってもらったのです。緑化フェアの閉幕後も6つの庭園(イポー市はたくさんの蘭を“グリングリン”の中に植栽してくれています)はそのまま残され、国際庭園として人々の目を楽しませています。と言ってもあまり知られていませんよね。知られていないから手入れもやや不十分らしく、雑草が目立っていました。もったいない。
 広州庭園は小さいながらも広州らしさを十分に具えた立派なものです。当時この造園作業に関わった人が今回のバスハイクに4人も居たなんて奇遇です。かく言う私も広州からやってきた設計士や技士さんと地元の作業者との意思疎通をお手伝いするために、屋根に登って通訳をした思い出があるのです。
 しかし何しろ暑かったので、そそくさと日陰に避難してグループ分けのじゃんけんをしました。総勢33人を6、7人の5グループに分け、バスの中でも昼食時も、そして海の中道海浜公園でのオリエンテーリングでもそのグループで一緒に居るようにしたのです。これで参加者間の空気は一挙にうち解け、バスの中も賑やかになりました。

 次に行ったのは志賀島の金印公園。道中、夏休みの土曜日とあってサンシャインプールに向かう車の渋滞にあいましたが、楽しい語らいがイライラを消してくれました。
金印公園は言わずと知れた、国宝金印の出土の地です。でもここに新中国建国期の功労者で九州大学医学部出身の郭沫若(かくまつじゃく)さんの詩碑があることを知っている人はあまり多くないかもしれません。
 この碑が建てられたのは日中国交正常化後4年目の1976年のことです。73年に中国を訪問した訪中団が郭沫若さんと会見したことをきっかけに、官民による「詩碑建設世話人会」が組織され、111団体、410個人からの浄財を募って、郭沫若さんの「永久に室内の戈を重ねて操らじ」という日中不再戦、平和への願いを詠んだ詩を大きな石に彫り込み、中国ゆかりの地である金印公園の一角に建立したのです。石碑の下には賛同者の名簿をいれた硝子の箱が埋められています。(独身時代の私の名前も含まれています。)

 郭沫若さんの詩碑のある場所から少し下った処には、福岡広州友好都市の調印をした時の広州市長(当時は革命委員会主任といいましたが)楊尚昆さんの書を刻んだ石が建てられています。
            帯水横陳  (帯水よこたわり)
            両市相望  (両市相望む  )
       友誼永恒  (友誼永恒なり )
広州市の越秀公園のなかにある“金印遊園地”には進藤一馬元市長の俳句が石に刻まれて建立されているのですが、この時代は石に刻んで記録を残すという、中国古来の方法に倣ったやり方が多かったのだなと今にして思います。
 楊尚昆市長はのちに国家主席となった方で、広州の学生達は楊主席として知っていたようですが、広州市長だったことは知らない人が多かったようでした。

 ここで記念写真を何枚も撮ったあと、大岳の“海辺の里”に移動して、バーベキューの昼食をいただきました。海の幸をつかった珍しいバーベキューでした。当初は公園の木陰で持参のお弁当をと計画していたのですが、インターンシップ生をホームビジットさせてくださったSさんのお母様がバーベキューに皆を招待してくださったのです。
大人数なので学生の分だけご馳走して頂くことにしました。暑い日でしたので、炉を囲んでの焼き肉、焼き魚もかなり熱くはありましたが、これぞまさしく漢方医学に言う「以熱攻熱」~熱で熱を退散させる~でしょう。

 お腹一杯になったところでいよいよ今日のハイライト、海の中道海浜公園でのオリエンテーリングです。真昼の公園の中を、地図をみながら、隠されたアルファベットの文字を求めて右往左往したのですが、暑いなりに楽しく、あっという間に1時間余が過ぎました。

 帰りのバスの中ではお互いのメールアドレスを交換する姿があちこちで見られ、いい交流だったんだなと満足を感じると共に、メールの交換や色々な連絡が末永く続くよう心から念じました。それこそが私たち福岡広州ライチ倶楽部の求めるものだからです。

頭の痛いゴミ処理問題

2010年7月20日 火曜日

 7月6日から8日まで広州市の議会に当たる「広州市人民代表大会常務委員会」の代表団一行7名が来福し、福岡市議会と交流しました。今回の交流テーマは“循環型経済の発展”。主に廃棄物処理について双方が現状と課題を話し合いました。 

 広州市はこれまで“埋立て”を中心にすべてのゴミを処理してきたそうで、分別収集と焼却処理をすすめることが今後の課題だそうです。常住人口が1000万人を超える広州ではゴミの発生量もハンパではなく、いくつのも埋立て場も既に満杯だとのこと。 その周辺は悪臭や汚水、メタンガスの発生などで大変なようすです。 

 広州市政府や人大常務委員会(議会に相当)では今、ゴミ減量と焼却処分に力を入れ始めており、昨年でしたか、広州市の周辺―番禺(ばんぐう)区に焼却場を建設する計画を発表したところ、周辺住民の猛反対にあって、計画を変更せざるを得なくなったと聞いていました。 

  このことが背景にあってか、今回の交流協議では広州側から「焼却場の場所はどのようにして決めているのですか?」「誰もいないところに建設して、後から住民が入ってくるのですか?」「反対は出ませんか?」等々、とても具体的で差し迫った質問がたくさん出ていました。 

 番禺区での問題は日本では「住民が権利を主張し始めた」という、ちょっと別の角度から注目されていましたが、環境衛生の行政担当者にとってはほとほと頭の痛い問題のようです。 

 「でも、その前に出来ることがあるのでは?」と私は通訳をしながら思いました。 

 皆さんは“「福岡方式」の埋立て場”ってご存知ですか?分厚いゴミの層に穴の空いた管を埋設し空気を通すことで、埋立て場の悪臭や汚水、メタンガスの発生などを大幅に改善する方法です。ローテク、ローコストで効果が大きいことから、日本国内の埋立て場の基本構造になっているそうで、近年はアジア太平洋諸国にも紹介され効果を上げているのだそうです。 

 広州市との間でも1995年に両市衛生局が“協力交流に関する覚書”をかわしてこの技術移転に努め、2000年には広州の埋立て場建設責任者が1ヶ月福岡に滞在しながら専門的な技術を学びました。その後…?きっと現場に応用されてそれなりの成果を上げていると信じましょう。 

 ただ、広州の大勢が焼却場建設に移っていることは確かなようです。もちろん分別収集して、再利用する物と焼却する物と、埋立て処分する物に分ける、これは是非とも必要なことです。でもすぐには実行できません。ゴミを分けて捨てるって、言うは安く…ですから。その準備を進めつつ、一方ですぐ出来ることから始めては? 

 ローコスト、ローテクの「福岡方式」で今ある悪評高い埋立て場を改善し、公害の発生をおさえながら、埋立て場の地面を安定させれば、その場所にいつか焼却場も建設できるのでは? 

 素人の私が考えるほど簡単なことではないかもしれません。ただ、ゴミの問題、環境の問題が広州にとって喫緊の課題になっていることは確かだし、それに「福岡方式」と私たちの経験がもっと役に立てれば、こんなに嬉しい事はないと思っています。 

 

ブログにチャレンジ!緊張しています

2010年7月10日 土曜日
ライチの画像

広州特産のライチ、おいしそうでしょう。

第2回ライチ狩りツァーを行いました。

  一行10人。初回の昨年に比べるとずっと小振りなグループでしたが、小さいグループならではの利点もあって、みんなが親しくなりました。

  今年は南沙区の又一園でライチ狩りをしました。                                                   ライチは実の多い年と少ない年ーなり年と不なり年があるそうで、幸い今年はなり年とのこと。このところずっと雨続きとかで、小一時間の道中、あまりの大降りに「今日ばかりはさすがの“晴れ女”の神通力も及ばないか」と覚悟していたのですが、外へ出るときは雨は降らず、ぬかるんで滑りやすい急な斜面に気をつけながら沢山収穫しました。

  この日の夜は日曜日にも拘わらず、広州市外事弁公室の王福春副主任や林処長がわざわざ歓迎宴を開いて下さいました。

     二日目。午前中は新都心である天河区の外事弁公室にお願いして、筍のようにニョキニョキ伸びているビルの上から開発の状況を説明してもらいましたが、残念ながら雨のため視界不良。11月に広州で開催される“アジア競技大会”に向けて、各施設の工事も急ピッチで進んでおり、完成間近な広州の新しいシンボルとなる610メートルのテレビ塔も、その美しい姿を私たちにはっきりと見せてはくれませんでした。

 午後は思い思いに自由行動をしました。地下鉄であちこち散策した人、思い出の地を再訪した人、昨年受入れて連絡を取り合っているインターンシップ生に再会した人…みんなとびきりの思い出を作りました。

 4日間の日程でしたが、1日目の夜に到着、4日目の朝出発で、広州で楽しめる時間は2日間だけ。でも楽しくも充実した2日間でした。

 また来年を楽しみに!